自戒と備忘、虚構と酔狂

日々の雑感や独白

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種をまく

ブログやツイッターを定期的に更新するようになったのは、ちょうどコロナ禍の影響が本格的になり始めた2020年初旬であり、自戒と備忘の記録を名目としていた。

 

国際的な往来が事実上遮断された事によって、日本語という言語空間から取り残されたことによる漠然とした不安を慰めるものだったかもしれない。そういう意味では至極私的な営為であった。自己実現、あるいは承認欲求としての表現とは、本来的な意味で対局にあるものであると思う。

 

しかし、自分の雑然とした思索を公共の閲覧可能な形で書き記す事で、それが人の目に留まり、新しい縁に繋がることも少しづつ出てきた。そういう意味で、“種をまいていた“と言えるかもしれない。

 

1000人の目に止まったとして、そのうち1人でも面白いと思ってくれて、何かしらの縁に繋がればよい。気取りなく今はその心境であるが、いずれにせよ、生きている限り、何らかの形で種をまくことは続けなければならない、と思ったのだった。

 

 

成長曲線と“立ち上がり”

伸び悩む時期を経て若手が非連続的な成長をすることを指して、“立ち上がる”という言い方がされる。

 

自分自身は例外的なケースを除き、何かを理解することに時間がかかるタイプであり、これまで人生の節目で新しい事を始める度に幾度となく苦労してきた。一言で言うなら、要領が悪いのである。実際、飲み込みの早い人を羨ましく思うところはある。

 

しかし物事には両面あり、一定の閾値を超え、ステップ関数的な成長をした後には、ある程度までなら理路整然と語ることができるほどには、暗黙知も含めて言語化ができている状態が出来ていることにも気付いた。この点、勘の良さから初期段階からパフォームする人に意外と苦手とするところかもしれない。

 

紆余曲折、試行錯誤の過程を経ていることは、教育を施す立場としても役立つ。一通りの壁にはぶつかり尽くしており、どういうところで躓くか、その際どういうプロセスを経て解決すべきか、という体系化の作業を終えているからである。

 

そういう個人的な特性と来歴もあり、成長曲線というものを考える際は、「初期(数ヶ月)の定点観測ではなく、中期的(1年~)の視点で見ること」、「立ち上がりのポイントまで待つこと」を常に念頭に置いている。

 

"立ち上がる"、という言葉を教育者の立場から見れば、閾値を超えるまで待つ愛情、と見ることもできるだろう。おおよそ1年ほどと思っているが、それくらいの時期の出来・不出来は誤差の範疇として、鷹揚に構えるような器を持っていたい。

“魔法の杖”思考のワナ

特定の打ち手があたかも全ての課題を解決してくれる、といった語られる場面に出くわすことも少なくない。これを、個人的に“魔法の杖”思考のワナと呼んでいる。とりわけ、流行のバズワードに紐づくような最新ツールやサービス導入の文脈で散見される。

 

要するに、思考に深みが足りていない、解像度が粗いのだが、現実的に人の認知・思考の根底にある“因果律”はかなり単純、短絡的なところもある。生存本能に根ざした因果律は、可能な限り単純化された形で学習されることが、生存という目的の限りにおいては最適だからである。

 

生物としての人類の脳にプレインストールされた因果律の癖を自覚し、何か物事に対する解決策を考える際は、“魔法の杖”思考に陥っていないか、ということを考えてみるとよい。

他者の課題を言語化する

他者の課題を面と向かって言語化する、というのはひとつの挑戦であり、恐怖を伴う。これを以前の上司は、“チャレンジ”と言っていた。

 

自分のことは自分が一番わかってる、とか自社のことは自社が一番わかってる、というのは定義にも依るが、そもそも自己認知に歪みの入る余地も少なくない。加えて、身の回りの事象を構造化し、考える習慣も時間もある人というのは、ごく一部である。

 

情報が不足する中でピースを繋ぎ、一定の結論を出すこと、これを仮説思考といったりするが、仮説思考ができるかどうか、これが他者の課題を言語化する際には特に重要となる。相手と自分の間に圧倒的な情報の非対称性があるからだ。

 

コンサル業をそれなりに経験してみて思うのは、醍醐味はこの"他者の課題を言語化する"緊張感にあり、時に壮大に空振りし冷や汗をながしつつ場数を踏む、というのが通過儀礼的なところはあると思っている。これは多分に身体的な性格も強い。

 

したがって、頭の善し悪しとは別の素養として出来ない人はいつまでたってもできない。20代早期に習慣化できる環境に身をおいていたか、“チャレンジ”を歓迎する上司・同僚と仕事ができたか、というのも大きいかもしれない。環境ゆえ、運の要素も強いが。しかし、これができるかできないかで、仕事の幅は全く変わってくる。

海外で仕事をすることについて

あくまで私見だが、海外関連でキャリア(余り好きな言葉ではないが)を築きたい人ほどleap before you look精神を持った方がよいと思っている。粗削りであろうと、自分なりの仮説と情熱があるならば飛び込んでみた方がよい。

 

というのも、何事もそうだが、情報の非対称性が大きい領域ではまず一次情報にどっぷり浸かってみることが大事だからだ。日本で手に入るような手垢のついた二次情報に触れても、ハッキリ言ってほぼ何も見えてこない。これは、国外に見を置く今、改めて思うところである。

 

一次情報が絶対的に不足している状況で持てる仮説は、現地の“肌感”から大きく乖離していることも少なくない。老兵の見聞録、主婦の井戸端会議の域を出ないようなものもある、自分はなまじ海外をかじっていたのと複数の外国語がそこそこできたので、ふつうの日本人がいかにピントの外れた色眼鏡で"海外"やら"新興国"を見ているか、というところは学生時分でなんとなく察した。

 

大学卒業後、それなりに海外とも関われる様な職を得たが、余りにもピントが外れている、と感じ、このままでは東京に居ながら海外を見知った気になっているオッサンになってしまうのではないか、という焦燥感そのままに今の道に進んだのだった。

 

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」はリクルート社の創業者・江副氏の言葉でかつては社訓でもあったらしいが、なかなか感じ入るものがある。

五月病への処方箋

世の中には五月病という言葉があるが、5月に限らずとも、年に数回は「どうも調子が悪いなぁ…」という時期はあるものだ。モチベーションが低いわけではない。しかし、どうも力が入らないという、あの感覚である。

 

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掛け算と引き算の組織力学

よい組織、よいチームには掛け算の組織力がある。つまり、自分より優秀な人物を(別け隔てなく)歓迎し、時には引き上げ、巻き込む事で、互いにレバレッジをかけて共通の目的を達成しようという風土があり、それは事業推進においても強力な動力として作用する。

 

一方で、悪い組織、悪いチームには得てして引き算の組織力が働いている。そこでは限られたパイを奪い合う弱肉強食的な風土が蔓延し、次第に共通の目的よりも個々の保身、政治的な仕草が蔓延るようになる。

 

一般に大企業、と言われる企業ほど、ここで言う引き算的な組織力学が強くなりやすいように見える。人材の流動性に乏しく(しかも往々にして年功序列であり)、かつ市場成長性に限界のある場合、組織ピラミッドの維持を所与とすればその内部で起きるのはパイの奪い合い、というのは自明である。

若者がスタートアップ・ベンチャー企業に興味を持つのは、市場、或いは組織としての成長・拡大フェーズにおいては掛け算的な力学が機能しているように傍目には見え、それが魅力的に映るのだろう。しかし、真に成長・拡大している組織であれば、そこに集う人材の流入も同じペースで起きるはずであり、従って大企業と比較しても大局的に見ればトントン、と言ったところであろう。従って、必ずしも外形的な要素でもって判断できるものでもない。何より、掛け算の組織力を持っている組織は非常に少ない。これはひとえにトップの器そのものだという気がする。

 

すべては、自分の存在意義が問われる程に優秀・格上の人間を引込む事で自分も成長し、自分の目的を達成したいという揺るがざる志、確たる自信を持つ人をどれだけ集める事ができるか否かにかかっているのだ。それが"エクセレント・カンパニー"の定義だと思っている。

 

 

余談

『起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男 』(大西 康之著)を読んだ。そこにこんな一節がある。

 アメリカ・シリコンバレーの新興企業に投資する有力ベンチャー・キャピタル(VC)が、見込みがあると判断した若い起業家に必ず出す〝宿題〟がある。 「君のアイデアが素晴らしいのは分かった。だが、それを実現するにはチームが必要だ。君より優秀な人間を3人集めて来たら、カネを出そう」

<中略>「ユニコーン(幻の一角獣=10億ドルを超える企業価値を持つ未上場ベンチャー)」を立ち上げる人間は、優れたビジョンと、そのビジョンの実現のために優秀な人間を巻き込んでいく力を兼ね備えた人間でなくてはならない。

 頷けるものがある。江副という人物についても、自分にない才能を巻込む類まれなる力があったようだ。

一流と二流、その違いと組織文化

むかし読んだ、服部暢達氏の著書にこんな一節があった。

"会社にはそれぞれカルチャーがあって、雰囲気が違うものだ。しかし、私はこのカルチャーというものは自然にできるものではなく、会社の経営陣が意志をもって作るものだと思っている。"
『ゴールドマン・サックスM&A戦記』

 

余り好きな言葉でないがトップTierとセカンドTierの何が違うのかというと、それは「我々は一流であり、二流の仕事は許されない」というマインドセットに尽きると思う。

 

勿論プロフェッショナルとは所属を独立したものだし、自分自身、いわゆる王道から離れた歩き方をしてきたので人様をとやかく言える立場にない。しかし、仕事上関わった人たちを見るにつけ、これも人との関わりの中で研鑽されていくものであり、その意味でどこで・誰と働いてきたかの影響は少なくないように思う。


この強烈なマインドセットを涵養する確固たる組織文化は一朝一夕に出来るものでない、それは先人、リーダーシップから伝承され、連綿と刻まれた”年輪”の賜物であろう。そこには敬意しかない。狼煙を上げ、強固な規律と連帯に貫かれた組織を新たに作り上げようとするのは、生易しい事ではない。

成長曲線の射程と傾斜

成長曲線の射程と傾斜、という事を最近よく考える。

 

これが自分のやりたい事である、という強い目的意識がなければ徹底的に没入する事はできないし主体的な創造性が働く余地はない。自ずと妥協も生まれる。成長曲線を人並み以上にintensifyする理由もない。成長曲線の射程と傾斜は、当人の目的から逆算して導かれるものでしか有りえず、本人の意思に反して他人が設定するべきものでは決してない。

 

採用なり、"人"に関わる業務上、しばしば投げかける一連の質問がある。

「あなたはどういう存在になりたいか。なぜそうなりたいか。ここに居る意味はあるか。」

これは、個々人の成長曲線の射程と傾斜をどう設定するか、という事を聞いている。

 

そこに対して明確な言葉をもっていなければ、少なくともわざわざこんな辺鄙なところで仕事をする意味はないと思う。あくまで双方向的な、建設的な会話の為だ。情熱を偽ってまで就くべき職だとはとても思えない。 

 

個人的にはキャリア、という小奇麗な言葉に収まらないような熱量と衝動に突き動かされている人が好きだし、立場や所属を問わず、そういう人と働く事は気持ちが良い。それは目的意識を共有できているからだと思う。

 

何の為にここに居るのか、その明確な理由を持ってない人間が苦しい局面を乗り越え成長する事はない。特に、外国に来れば人並み以上に苦労をし、時には侮辱や裏切りに遭う。自分の依るべき志が無いならば、立ち続けている事さえもできない」。そして、しかし君にはある、という余りに勿体無い言葉をかつて頂いた。

 

思い出す度、この言葉に恥じぬように生きたいと思う。

プランB

英語でPlan Bとは、本来の計画や作戦(Plan A)がうまくいかなかった場合のためのバックアップとしてあらかじめ用意された2つ目のプランをいい、「次善策」というような意味になる。

 

ベストシナリオの戦略の青写真を描くくらいは誰にでもできる。しかし、実行に移してみた時、ワースト・シナリオに転じた場合まで想定し、"最悪の時でも着地として必ず死守するライン"まで考えているのが本当の経営者であり、戦略家というものだろう。

 

結局、これも理詰めが半分、残りの半分は気合に近いものがあるように思う。