状況は所与である

人生において、仕事あるいはプライベートに関する話題であるかを問わず、困難な状況に陥るということはままある。更に、ある問題を解決したと思えば別の所でまた新たな問題が起きる。世の中というのは実にうまく調和が取れているものだ。

 

たかが一個人によって管理可能な事象というのはごく僅かであり、たいていの物事は自分の意志の及ばないさまざまな要因によって行く末が左右される。

 

こうした状況に対する幼稚な反応というのは、状況を言い訳にする、他責にするというものだが、それは当事者としての主体の放棄にほかならない。

 

与えられた状況に主体として対峙し、意志と創意工夫によって自ら道を切り開くこと。この規律を思い出そうと、「状況は所与である」と呟く。今身を置いている状況というのは、因果によって予め与えられたものだ。その状況に対して主体として対峙するのか、あるいは放擲するのか。

 

この選択は、常に意志の範疇にある。

 

 

 

リーダーの発するメッセージ

リーダーシップ論なるものが巷では溢れており、自分もまた相応に、テーマとして一定の関心は払っているが、実地の試行錯誤を通じて自分なりに体得し始めてきたことが幾つかある。

 

中でも、"(ポジティブな)メッセージを発信し続ける"ことは、(広義の)リーダーシップにとって最重要の素養の一つであると考えるようになった。ここには、2つの問が包含されている。まず他ならぬ自分自身がその目標・ビジョンなりを信じることが出来るか、次にそのメッセージを組織・チームに行き渡せることが出来るか、という問である。

 

何事においても未来を語るならば、不確実性はそこに所与としてある。転々とする状況において尚、一貫して「こうなる」という確信(conviction)を保持できるかは、とりわけ起業家において重要な素養であろうが、そうでなくとも何らかの立場で組織を統率するにおいては目標なりを語ることになり、対峙する問の抽象度と職責に異同こそあれ、その限りに置いて特段の相違はない。

 

リーダーの発するメッセージは組織に、チームに伝播・伝染する。この影響力を甘く見積もってはならない。言葉はもちろん、日々の行動・振舞い(作為・不作為を問わない)から人はメッセージを感取し、暗黙の規範として染み渡る。当人が意識的かを問わず、ポジティブなメッセージは前向きに作用するし、逆もしかりである。この集積こそが組織文化=カルチャーというものを形作る。

 

相応の根拠たりうる仮説を持ったうえで、可能な限り簡潔かつ明確なステートメントとして共有すること、共有し続けること。繰り返しになるが、これを言葉はもちろん、日々の行動・振舞いから信じられる風土を醸成することを愚直に続ける必要がある。

 

態様に正解はなく、これはひとえに当人の特性によるであろう。必ずしも雄弁である必要はない。また、ひとりで何もかも背負うべきではなく、周囲を育て動かし、自律的な組織文化を作ることこそが、むしろ肝要である。

 

我慢強さというのも時には必要である。それが一定の負荷を伴うような変化、変革に関わる場合、時として何より貴重な時間さえ犠牲にしなければならない。あるファウンダー/CEOはこんなことを言っていた。

If, people were just like chess pieces, you just move them and, and it's over. But they're not. And sometimes you can see a problem and you have to strategize it out so, so if you're moving people around. You don't want anybody particularly to lose confidence in themselves. You wanna be nice to everybody, but you want to accomplish the objective.

So sometimes it can take two years to do something that you know should happen in ten minutes. But if you did it, then you'd break so much glass through the organization that you'd threaten the institution or you'd threaten core people, and there's a way to work that out.

So, time actually, as opposed to some cartoon-like swashbuckling CEO. It doesn't work that way. You have to be careful with every move. You have to give people dignity. But you have to accomplish your objectives. 

So time is something that you give up, sometimes, to do that. And you also have to articulate the core values of your business. And you can never stop doing that.

 

(拙訳)

もし、人間がチェスの駒のようなものであれば、ただ動かして終わりだ。しかし、実際はそうではない。問題が見えていても、それを戦略的に解決しなければならないこともある。誰かに自信を失ってほしくはないし、親切でありたい、しかし目的は達成したい。

時には10分でできることを2年かけてやることもある。無理にそれをやってしまうと、組織を脅かすほどのガラスを割ってしまうことになり、組織を脅かしたり、中核となる人々を脅かしたりすることになってしまうからだ。

だから、漫画に描かれるキャラクラーのようなCEOとは違って、実際には時間が必要なのである。自分の一挙手一投足に気をつけなければならないし、人々に尊厳を与えなければならない。しかし、目的は達成しなければならない。 そのためには、時として時間を犠牲にしなければなりません。また、自分のビジネスのコア・バリューを明確にしなければならないし、これを絶対にやめてはいけない。

 

「だめな社員はいない。だめなリーダーがいるだけだ。価値は人が生み出す。企業で最も大切な財産は人材だ」。こちらは『アリババの経営哲学』に引用されていた創業者ジャック・マーの言葉だが、組織の原理原則として、改めて肝に銘じたい。

 

種をまく

ブログやツイッターを定期的に更新するようになったのは、ちょうどコロナ禍の影響が本格的になり始めた2020年初旬であり、自戒と備忘の記録を名目としていた。

 

国際的な往来が事実上遮断された事によって、日本語という言語空間から取り残されたことによる漠然とした不安を慰めるものだったかもしれない。そういう意味では至極私的な営為ではあった。

 

一方で、自分の雑然とした思索を公衆に閲覧可能な形で書き残す事で、それが人の目に留まり、新しい縁に繋がることもごく稀にある。そういう意味で、“種をまいていた“のかもしれない。

 

1000人の目に止まったとして、そのうち1人でも面白いと思い、何かしらの縁に繋がればよい。今はその心境であるが、いずれにせよ生きている限り、何らかの形で種をまくことは続けなければならないと思ったのだった。

 

 

掛け算と引き算の組織力学

よい組織、よいチームには掛け算の組織力がある。つまり、自分より優秀な人物を(別け隔てなく)歓迎し、時には引き上げ、巻き込む事で、互いにレバレッジをかけて共通の目的を達成しようという風土があり、それは事業推進においても強力な動力として作用する。

 

一方で、悪い組織、悪いチームには得てして引き算の組織力が働いている。そこでは限られたパイを奪い合う弱肉強食的な風土が蔓延し、次第に共通の目的よりも個々の保身、政治的な仕草が蔓延るようになる。

 

一般に大企業、と言われる企業ほど、ここで言う引き算的な組織力学が強くなりやすいようにも見える。人材の流動性に乏しいからだ(しかも往々にして年功序列であり)。とりわけ、その市場成長性が頭打ちという場合においては、組織のピラミッド構造を所与とすればその内部でパイの奪い合いというのは起こるべくして起こる。

他方、スタートアップ・ベンチャー企業というのは市場、或いは組織としての成長・拡大フェーズにあり、そこでは掛け算的な力学が機能しているように傍目には見え、実際彼らは採用マーケティングにおいてそうした面("フラットな風土")を強調する。しかし、真に成長・拡大している組織であれば、そこに集う人材の流入も同じペースで起きるはずであり、ということは結局上で述べたことと同じ構造となる。

 

従って、大企業と比較しても大局的に見ればトントン、と言ったところであろう。つまり、必ずしも外形的な要素でもって判断できるものでもない。何より、掛け算の組織力を持っている組織は非常に少ない。これはひとえにトップの器そのものだという気がする。

 

組織というのは、自分の存在意義が問われる程に優秀・格上の人間を引込む事で自分も成長し、自分の目的を達成したいという揺るがざる志を持つ人をどれだけ集める事ができるか否かにかかっている。それが"エクセレント・カンパニー"についてありうる一つの定義ではないか。

 

 

余談

『起業の天才!―江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男 』(大西 康之著)を読んだ。そこにこんな一節がある。

 アメリカ・シリコンバレーの新興企業に投資する有力ベンチャー・キャピタル(VC)が、見込みがあると判断した若い起業家に必ず出す〝宿題〟がある。 「君のアイデアが素晴らしいのは分かった。だが、それを実現するにはチームが必要だ。君より優秀な人間を3人集めて来たら、カネを出そう」

<中略>「ユニコーン(幻の一角獣=10億ドルを超える企業価値を持つ未上場ベンチャー)」を立ち上げる人間は、優れたビジョンと、そのビジョンの実現のために優秀な人間を巻き込んでいく力を兼ね備えた人間でなくてはならない。

 頷けるものがある。江副という人物についても、自分にない才能を巻込む類まれなる力があったようだ。

成長曲線の射程と傾斜

成長曲線の射程と傾斜、という事を最近よく考える。

 

これが自分のやりたい事である、という強い目的意識がなければ徹底的に没入する事はできないし主体的な創造性が働く余地はない。自ずと妥協も生まれる。成長曲線を人並み以上にintensifyする理由もない。成長曲線の射程と傾斜は、当人の目的から逆算して導かれるものでしか有りえず、本人の意思に反して他人が設定するべきものでは決してない。

 

採用なり、"人"に関わる業務上、しばしば投げかける一連の質問がある。

「あなたはどういう存在になりたいか。なぜそうなりたいか。ここに居る意味はあるか。」

これは、個々人の成長曲線の射程と傾斜をどう設定するか、という事を聞いている。

 

そこに対して明確な言葉をもっていなければ、少なくともわざわざこんな辺鄙なところで仕事をする意味はないと思う。あくまで双方向的な、建設的な会話の為だ。情熱を偽ってまで就くべき職だとはとても思えない。 

 

個人的にはキャリア、という小奇麗な言葉に収まらないような熱量と衝動に突き動かされている人が好きだし、立場や所属を問わず、そういう人と働く事は気持ちが良い。それは目的意識を共有できているからだと思う。

 

何の為にここに居るのか、その明確な理由を持ってない人間が苦しい局面を乗り越え成長する事はない。特に、外国に来れば人並み以上に苦労をし、時には侮辱や裏切りに遭う。自分の依るべき志が無いならば、立ち続けている事さえもできない」。そして、しかし君にはある、という余りに勿体無い言葉をかつて頂いた。

 

思い出す度、この言葉に恥じぬように生きたいと思う。

コンサルタントとアドバイザーの違い

自分の理解では、(伝統的な)コンサルティングとは、経営という文脈における意思決定に関する助言を生業とするものであり、アドバイザリーとは、特定の取引に関する助言を生業とするものである。役務の提供対象がそれぞれコンサルティングでは「経営」、アドバイザリーでは「取引」であるという点は、両者の特質を隔てる大きな要素である。

 

ここで、投資銀行(あるいはM&Aブティック)に所属しM&A関連の助言業務を提供する人たちは“アドバイザー”と呼ばれるのが慣例である。

 

コンサルタントがクライアント・ワークであるのに対し、アドバイザーにはクライアントに加え、「利害の対立する」「第三者」が存在するというのは決定的に大きな違いである。従って、「折衝・交渉」に関する素養が専門的・技術的な知見に加えて大きな意味を持ち、かつ主要な機能の一つに含まれる。"confrontation"=相手方との対峙に耐えうる資質の有無は、計数的教養に加えて当該職能への適正を判断するための極めて重要な観点の一つであり、またこの仕事が大変ハードな一方で(余り良い喩えではないが)麻薬的な醍醐味のある所以であろう。

 

一方で、「資本市場を考える会」で服部先生がM&A助言業務について述べておられた様にアドバイザーは通常、取引のリスクを最小化し価格等の取引条件を最適化する事のみにフォーカスする。従って、その前提としての経営判断自体への参謀的機能は(少なくとも役務スコープとして)期待されないのは物足りないところといえるかも知れない。

 

しかし、その職能に関わらず信頼に値するプロフェッショナルと目されていればクライアントもその意見に耳を傾けるものであるし(一流企業の経営者が真に耳を傾ける、という意味で"本物の"コンサルタントは日本に数名しかいない、という趣旨の発言が波頭氏・富山氏の対談録にもあった)、また経営判断とは何事も可能性の議論であり、あくまで取引としての最適解を導出するというのが本来求められている価値であろう。

 

月並みな結論となるが、結局は個々の職業人の属人的な力量と矜持の問題でしかないのだろう。

『戦場にかける橋』の実存的矜持

戦場にかける橋 (原題:The Bridge on The River Kwai)という映画がある。今から半世紀以上前の1957年に公開され、今なお映画史に残る名作の一つに挙げられる。

 

題名の「戦場にかける橋」とは、タイ王国のクウェー川に架かるクウェー川鉄橋を指す。第二次世界大戦の1943年のタイとビルマの国境付近にある日本軍の捕虜収容所、そこに収容されたイギリス軍兵士らと、彼らを強制的に泰緬鉄道建設に動員しようとする日本人大佐との対立と交流を描いたこの映画は、フランスの小説家ピエール・ブールによる同題の小説を原案とする。原作は、ピエールの実際の従軍経験に基づいて書かれたものと言われている。

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六次の隔たり

六次の隔たり、という言葉がある。

 

相手が世界中の誰であれ(アメリカの大統領であっても)、世界中の人間は「知り合いの知り合い」といった関係を辿れば6人目で繋がるという。ある調査によれば、5人という検証結果もある。いずれにせよ、近いせ世界になるほど辿り着くのは早いハズだ。実際の肌感覚で言っても、同じ業界で仕事をしている人であれば大抵は間に一人、間に二人くらい挟めばまず共通の知り合いがいるものだ。

 

ここから改めて分かるのは、紹介してもらえる信頼を築くこと、消極的な言い方をすれば誰に対しても真っ当な関係を作っておくことの意味合いだろうか。

 

しかし、別の見方をすれば、この原理原則さえ抑えているなら"コネ"はほぼ誤差でしかないとも言える。隔たりの数は最大でも1〜5の範囲にしかないのだから。孫正義でなくても、アラブの石油王にピッチする事だってできるかも知れない。そこに至る信頼の連鎖の蓄積と、実際にモノにする能力があるかも同じくらい、重要と言う事であろう。

巨木を切り倒す

事業を創る過程は、巨木を切り倒すという行為に似たところがあるように思う。

 

人や物事を動かすという事には忍耐を要する。斧で巨木を打ち据えるが如く、手応えがない空白の期間をじっと耐える事ができるか。戦略に対する確信を維持できるか、そもそもそれは確信に値する戦略であるか。試されているのはConfidence(自信)ではなく、Conviction(確信)である。

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仕事を任せる/任せられる順序

仕事を他人に任せる/任せられる時、伝えるべき内容には然るべき順序があると思っており、それは以下の3要素によって構成されるというのが自分なりの整理である。

 

1. Why : なぜやるのか(背景と目的)
2. What  : 何をやるのか(求める結果)
3. How : どうやるのか(具体的な方法)

 

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