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言語化する事の難しさと鍛錬の必要性

私的な記録という建前ながらも公開の媒体に文章を晒してみて改めて思うのは、言語化する事の難しさと継続的な鍛錬の必要性である。

 

一般に考えられている以上に、思考を言語化するという事は難しい。そして本当の意味でその難しさを理解している人は少ない様に思う。だが、言語とは即ち思考そのものであり、言葉の強度は思考の強度の表出そのものだというのが持論である。

 

 

プロファームに入社間もないジュニアは、クライアント又は業界関係者へのインタビュー議事録、そしてスライド作成を通じてこれを徹底して叩き込まれる。なぜその言葉を使ったのか。個別かつ全体両方の視点で明確なロジックを持っているか。各語の微細な差異を感得した上で取捨選択しているか。また、定義・意味を聞かれて即答できるか。この詰めの洗礼を受ける事からOJTが始まる。

 

 

言葉に半ば神経症に近い程に執着するのは、それこそが人と組織を動かす唯一の道具だからである。コンサルティングの業務は大まかには、

  1. 事実の収集
  2. 事実の分析
  3. 示唆の導出
  4. 取りうる選択肢の比較/評価
  5. 打ち手の提示

というプロセスを経る。これらは、最終的なOutcomeとしての具体的な経営判断を迫る「5. 打ち手の提示」に向け収斂していく。そしてこの全てのタスクが、企業経営という文脈において、思考を言語化する事の積み上げで出来ている。不遜の誹りを覚悟で言うと、これは一般的に日本の伝統的な大企業で求められる修辞的な所作とは異なる。当然、組織を外部から変革する事を試みる身として組織力学には十分配慮し修辞的な要素にも心を砕くが、職業人としてより力点を置きかつ本源的価値を持っているのは、論理的な側面である。もっとも両者を厳密に切り離す事はできず、後者は前者を包摂する関係にある。

 

さはさりながら、業務を離れたところで私的な学びの整理、又は自戒と備忘を目的した記録を書き連ねる段になるとあくまでも私的というExcuseも働き求める水準も甘くなる。だが、言語とは即ち思考そのものであり、言葉の強度は思考の強度の表出そのものならば、言語化できない学びは本質的に学びではない。読んだ本一つにしても、その要点を白紙の紙を前に滑らかに書く事ができないならば、それは"解った様な感覚"になっているだけである事が殆どである

 

少し話は変わるが、以前に比べれば日本でもコンサルティングがビジネスとして根付き、またそれに伴い各ファームが採用の門戸を広げている事から、新卒・中途で業界の門を叩く人も増えた。同時にコンサル出身者が人材市場でコモディティ化する事は避けられないと釘を指す人もいる。だが、企業経営という文脈において言語化する事に対し徹底した鍛錬を受けた、というのはその後どういったキャリアを歩むにせよ財産になるとは思う(価値があるかはさておき)。