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思考の型を持つ (2) - 強度

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仕事上、何か特定の事柄について考えを巡らせ、関係者に報告/共有する際、その思考/仮説は、自分が徹底して考え抜いたと言い得る強度を備えているか。

 

これは人間の成長曲線を決定づける重要な要素である。そしてこの点に対する徹底度の強弱が、(業種/職種を問わず)一流と二流、結果を残す人と残せない人を別つ分岐点になると考えている。

 

 社外関係者に対して営業(ピッチ)を行う、或いは提案資料/受注案件の成果物としてスライド資料を提出するなら、それが相手方企業の経営責任を終局的に担っているCEOの前で自ら説明/質疑に応え、意思決定を迫るに足る強度を備えているか。これを常に自問しなければならない。

 

若手の内は勿論、それなりに経歴を重ねてきても、この点が所作として身についていない人は少なくない。経営責任者に意思決定を迫る、或いはその緊張感ある現場に居合わせた経験が不足するうちは、ともすれば自分の業務を”片付ける”事が目的となり、その先にある企業経営の現場、そこでの議論に必要とされる思考の強度が具体として理解できていないのも、未熟ゆえの想像力の欠如として仕方ない部分はある。

 

しかし、全ての仕事は社内/社外を問わず何らかの形で経営と無関係に行われる事は原理的にありえず(また、関係ない仕事をしているならば直ちに手を止めるべきである)、常にその緊張感を持つ事を忘れてはならない。

”甘い”、要するに思考の強度が足りないアウトプットに対するレビューの際よく言うのは、「怖い、という感覚を持っているか?」という事である。クライアントの経営に関する意思決定を迫る、という役務の重みを理解しているならば、数字の正確性や言葉の選び方ひとつでさえ「一点のミスも許されない」という恐怖を感じるのが当然であろう。

プロジェクトの全体像(論点、仮説、スケジュール、マイルストーン、To Do等)が十分に明確でない場合、討議用資料、いわゆる"たたき台”を作成し、当該資料を元に議論が行われる場合があるが、その場合もこの原則は変わらない。そもそも、議論の土台となるに足りる強度すら備えていない思考は、"たたき台”にすらならない

 

なお、報連相の重要性はしばしば説かれるが、それが自分の裁量権を確保・確認する為という"攻め"の姿勢なのか、何かあった時に自分が責任を取りたくないという"逃げ"が目的なのかで全く意味合いが異なる。

自分が責任を取る覚悟を持っている人は、意思決定の質も格段に高い。これは、職制とは全く関係がない。

 

思考に強度を持つ事を怠ってはならないのである。

 

 

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