はじめに

本エントリは私的な独白めいたものである。

 

夢、といささか青い題をつけた。それは、怒涛の様に過ぎ去る日々の中で一呼吸し、改めて十代の頃から自分が志として掲げてきたもの、そして自分が何を目指すのか、そういった事を言語化しておきたいと思ったからだ。その道程で出会った人たちとの御縁、自分の支えとして在り続けてきたものへの反芻を通じて邂逅し、それを記しておきたいという想いもある。

 

言葉

思えば、昔から文章を書くのは好きだったし、何なら学生時代は物書きになりたいと漠然と考えていた時期さえある。書くという営為はとりもなおさず、自分との対話であり、痛みや苦しみを乗り越える為の鎮静剤でもあった。

 

今、自分は日本を去り海の向こう側にいるが、そもそも何を思いこの地に来たのか。ともすれば人は日常に埋没し、目先の事に一喜一憂する。日々に疲弊する中で収まりどころを見つけ、かつて抱いた様に熱く、青い夢を語る事も少なくなってゆく。

 

また歳を重ねるにつれ、自分の役割もまた変化する。かつての独りよがりな酔狂さえ、自分ごとではなくなる。影響力を持つという事は喜ばしくもあり、同時に相応の責任を背負う事でもある。

 

そんな事を考えている中で、改めて今、振返りを兼ねて覚悟を記し、未来に向けた道標として宣言する事を、今この時点でしておくべきだと思ったのだった。

 

越境

今のこの道も、遥か昔、学生時代に自分が掲げた夢の延長線上にある。しかし当時は茫漠とした観念しかなく、何故自分がその着想に執着するのか、それもうまく言葉にできなかったが、異質な共同体の狭間を生きる中で湧き上がる、切実な希求の様なものがあった。

 

此岸と彼岸、エスタブリッシュメントと社会的弱者、持つものと持たざるもの、そういった二項対立の狭間を生き、目の当たりにした不条理と悲哀、憤りや痛みが自分の通奏低音として確かにある。自分も異質な存在である、という過剰な自意識は社会の歪みに対する感受性として育った。当時のあまりに自分は無力で、例え矛先が向こうとも為す術もなく眺めている事しかできなかったが、時にせきをきったように激昂するのだった。

真の悲劇はその実、余りに惨めであり、口にするだに耐え難い痛みを伴う。「他言できるような悲劇は真の悲劇ではない」。自分もまた、かつて目の当たりにし、或いは見聞きした数々に対してここで語る言葉を持たない。

 

世界を記号の集積又は権力或いは差異の体系として眺める事、それは悶々とした感情を整序する物差しとして、時に残酷かつ不合理な社会と折合いをつける為の一つの解という気もした。しかし同時に、こういった分析や整理は、それ自体は何ら社会における変革をもたらすものではない。

かなり後になって、ようやく経済学的な方法論、その先にある実業の世界に対して惹かれたのは、解の確からしさ自体ではなく、それが常に変革を伴うものであり、人々の実生活に対して圧倒的なインパクトをもたらすものであるように感じられた。

 

海外

差異への感性は、越境者たちへの憧憬となった。旅行で訪れたアメリカに魅せられ二度と日本に戻らなかった大叔父、海外展開の為、アメリカ視察に訪れた祖父、商社勤めの祖父に口説かれるまま駆け落ち同然で大阪に移った祖母、ドイツに留学した母。話を聞いているだけでもワクワクしたものだった。

 

中学生から高校生にかけて、社会科は特に好きな科目であったが、興味の赴くまま乱読する中で、ある日はたと気づいた。歴史、或いは文化というのはそれ自体、一つの権力の体系ではないだろうかと。日本史であれ世界史であれ、教科書として選別された内容は、見れば見るほど恣意的かつ歪なエクリチュールという気がした。

 

私はいわゆるおじいさん子、おばあさん子であり、生前は大層可愛がって頂いた。祖父母は皆、先の大戦の時代に幼少期を過ごした。いずれの祖父も次男坊であったが、どちらも長兄は東南アジアで死に、家族は悼む亡骸さえなく、紙切れ一枚で彼らの死を知ったという。思えば、アジアという土地への想像力は親族から伝え聞いた物語により必然として芽吹いたのかも知れない。

腑に落ちなかったのは、これらの地域について殆どの日本人は無知であり、特に東南アジアの国々については漠然としたイメージしか持っていないという事だった。多種多様な文化や歴史が交錯し、「大東亜帝国」の支配下とし、いにしえより幾千の物語が去来した地域であったというのに。知る、という事を人はかくも怠るものだろうか。

 

学生時代、 海外で働く日本人とそれなりに接点は持ったが、そこで感じた事も似たような事だった。一流企業のエリートコースで海外赴任を経た彼らは、確かに一回の学生の目にも何か凄そうな事をしている様に写った。だが、個々の業務まで紐解いていくと拍子抜けした、というのが正直な所だった。

 

何より、海外とはいいながら、彼らの仕事は日本社会という狭い世界に閉じているように見えた。本国で取引があるお客の在外法人をカバーする、或いは生産ラインを管理するだけなら、それは座標が変わったに過ぎないのではないか。そう口にする事が彼らのプライドを逆撫でするであろうことも、容易に想像できた。出来上がった仕組みを回す事よりも新しい事業を作る事の方が、またモノを買うよりも、モノを売る方が遥かに真に力量が問われる、それは学生の自分にも自明の事だった。先進国の奢りか、暗黙のヒエラルキーを前提にしているような物言いも気に障った。

 

世界史とは「産業」の発展と、それを指数的に拡散する動力たる「金融」と「貿易」の変遷過程と言い換えてよい。此岸と彼岸を飛び越え結節する事が世界に新たな富をもたらすのだ。それが社会経済の核としてあるならば、どういう仕事を成すべきだろう。

 

それはグローバル市場の複雑な襞に入り込み、異なる共同体・文化に属する人達と相互に関わり、多くの人たちを巻き込み化学反応を起こしながら新たな価値を生み出す事ではないか、というのが自分の出した答えであった。

 

ビジョン

大学卒業後、とあるファームに入り、そこで多くを学んだ。志高く、熱量ある言葉を持ち、それを現実のものとして具現化できる能力を備えた同世代、経験豊富なシニアの姿を間近に見、共に働けた事はかけがえの無い財産である。要領が悪く、飲み込みの遅い自分も、彼らに食らいつこうとする事で成長できた事は間違いない。手を煩わせた期間も長かったが、最後にはそれなりに(あくまでそれなりに)土産も残せたかと思う。

 

退職を決めた事を切り出した後、ある役員とふたりで食事に行った。そこで言われた事は今でも覚えている。「正直、当時の君からは素養を見いだせず、この仕事に向いていないとも感じた。だが、ケースに対する答えを出来ないなりにも絞り出し、粘り強く議論する姿勢は買ってよい、とオファーを出した」と。空回りし思い詰めていた時期に、「人の本質はそう簡単には変わらないのだから、取り繕わず、あくまで君らしい価値を出せばいい」と言ってくれた人でもあった。

 

意志あるところに道は拓ける、と言ったのはリンカーンだったが、業務を経て学んだ事は、要するに意志の力という事になるだろうか。

直感

それでも日本を去る決意が揺らがなかったのは、自分がどういう価値をこの世界にもたらす人間でありたいかを考えた時、海外を土俵とし真に変化を起こせる人間でありたい、というかねてからの想いがあったからだ。そして、様々な領域のプロと関わり学びの機会を得た事で、具体的な方法論と道筋にについて、自分なりの仮説を持つに至った事が、決心を後押しした。海外における(広義の)事業開発を考えた時、ボトルネックは実行面であるというのが私的仮説であった。

国内に身を置こうが、海外案件に携わる機会はあるし、自ら創るべきものであろう。しかし、現場に浸かる事でしか得られない知見、人脈・地脈というものがある。下積みと割切るのは余りに悠長な時間の使い方としか思えず、燻り始めた火種は消える事がなかった。

 

人生の岐路で悩んだ時、最後によるべきはコンセンサスやコモンセンスではなく、己の直感であるべきだ。未来に属する事柄ゆえ満足に言語化できずとも、不思議と時間の経過とともに光明は差し、その時、明瞭な言葉で自分の決断を語る事ができる様になる。

 

BBCワールドサービスをラジオで聞き、海外の英文雑誌を購読し始めたのも、単に田舎の公立校に身を置く高校生の現実逃避めいた海外への憧憬、それ以上に(上に述べた様な)自分を突き動かす根源的な欲動が根にあったはずだ、という整理は大袈裟過ぎるだろうか。

 

機会

「今から3年以内に、手帳一冊だけを手に持って企業を訪問し、仕事を作れるような人間になれ。」 これはある人が、品川の某ホテルで私に言い放った言葉であり、自分が新しい世界に挑戦する契機となった。そう言った彼自身が、この言葉を体現してきた様な人物でもあった。何かしら成した人には語るべき言葉がある。対峙すればそれは判るものだ。

当時の自分には余りに抽象度が高く、真意を測りかねたが、今となってみれば、彼はこの仕事をする上で求められる本質的な素養を端的に言っていたのだと、身に沁みて判る。真に何かを成した人には語るべき言葉があるし、対峙して数秒でそれは感得されるものだ。

 

仕事を生み出す側になるか、その他大勢に甘んじるか。それがこの世界の冷酷な規律であり、後者に甘んじるならば自分もまた、替えが効く人間でしかなく、そうであれば異国に残り続ける意味もない。Up or out、という掟の真意でもある。本音を言えば、日本を発つ前に「3年以内」と心に決めた。それまでに己を限界まで追い込み、自分の器を見極めると。しかし最早、この様な或る種の逃げ道を残しておく必要はなく、御縁のあった様々な人たちに失礼であろう。

 

決して満足している訳ではないが、結果を積み上げる中で十分闘える自信をつけた。どれほど緊張感ある状況にあっても物怖じしない自分に我ながら驚くこともある。しかし、自分の言葉で伝え、動かす。これは誰が相手であっても同じ事だ。

 

使命

 自分が目指している事を一言で言い表すと、こういう事だ。ASEAN6.5億人、そして日本。まずはこの地域で、国を超えた事業を生み出すプラットフォームとなるような組織を創り、自分はそのダイナミズムを駆動する動力源でありたい。どうやるか?型にとらわれる必要は全くないと思っている。いくつかプランはしたためているが、何も既存の着想に囚われる必要も無い。ただ、社会に変化をもたらす大前提として、明確な存在意義を果たす為には然るべき強力なファンクションを備えていなければならない。組織としても個々人としても。

 

経営の目線を持つ"事と"経営者である"事は天と地ほど違う。事業の"オーナーである"事と、"オーナーシップを持つ"事も然り、そこには大きな隔たりがあるものだ。時に痛みはあれど、それも自分が遅かれ早かれ選び取る事を決めた道である。

 

自ら機会を創り、背水の覚悟で臨む結果もたらされる成長というものがある。これ迄、与えられる事の方が多かったが、今後は先陣を切って切り拓いて行かなければならない。

 

それは例え世界全体から見れば微々たるものであるとしても、自分達にしかなし得ない方法で世界を少しでも良い方向に進める事に寄与できたという達成感、それはまさに得難い歓びであり、より大きな変化を生み出していくよう努める事は、紆余曲折経てこの世界を志した自分なりの使命だと思っている。

 

懐かしい本棚

中学~高校生時代は、とにかくよく本を読んだ。生きる指針を求めていた、或いはまだ見ぬ世界への憧憬があった。これらの書物との出会いから今につながる必然はないのだが、然し確かな核として在る様な気がする。気恥ずかしくもあるが、まるで旧友、いや恩師の様に思い出深い書籍であり、今も本棚の片隅から私を見守ってくれている。

 こう思いつくままに並べて見ると、いずれも「越境」がテーマであるというのが面白い。