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分析的思考と統合的思考

巷言される「ロジカル」を取り巻く言説について、その本質から乖離した、ある種の盲目的な万能性への信奉の懸念があるのではないか、と思っている。

 

 

まず、ロジカルとは、節と節の関係を定義する関係性、それ自体を指しており、そこから導き出される結論・主張(Argument)自体の正しさを保証するものではない。この点、哲学者・言語学者を専門とされる野矢茂樹立正大学教授の著書『新版 論理トレーニング』に解説が詳しい。

 

論理力とは思考力のような新しいものを生み出す力ではなく、考えをきちんと伝える力であり、伝えられたものをきちんと受け取る力にほかならない。
狭い意味では演繹という関係だけを「論理」と呼ぶが、<中略>広い意味で「論理的」であるとは、さまざまな分野主張のまとまりが、たんに矛盾していないというだけでなく、一貫しており、有機的に組み立てられていることを意味している

 

従って、「主張のまとまり」の連関についてのロジカルさ(論理的正しさ)とは、必然的にアナリティカル・シンキング(分解的思考)と同義である。「演繹的」と言っているのは、所与とされた何かしらの定理から出発し、終局的には個別要素の証明⇒要素間結合の連関の強度、その帰結として導き出される結論・主張(Argument)に至る過程を指している。

 

繰り返しになるが、ロジカル・シンキングとはそこから導き出される結論・主張(Argument)自体の正しさを保証するものではない。この点において、論理とは思考そのものではありえない。思考とは、統合的なまとまりある仮説(Synthetical Thinking)を措定する営為であり、その意味で(論理を超えた)経験、暗黙知、感性等による直観の領域に属するものであろう。

 

「論理的思考力」とか「ロジカル・シンキング」といった言葉がよく聞かれるように、論理とは思考に関わる力だと思われがちである。だが、そこには誤解がある。(中略) 論理力は思考力そのものではない。思考は、けっきょくのところ最後は「閃き」(飛躍)に行き着く。<中略>思考の本質はむしろ飛躍と自由にあり、そしてそれは論理の役目ではない。(同上)

 

なお、統合的なまとまりある仮説(Synthetical Thinking)を欠いた個別のアウトプット(Analytical Thinking)は要するにゴミである。個別の要素を組み上げた結果、全体として何が言えるのか。その時、個別の要素は相互に矛盾なく組み上げられているか。個別のタスクベースで仕事をした気になっていると、この全体像を見失う。だから、経営者の様に常に統合としての個々の現象を見ている人たちに「それで君は全体として何が言いたいんだ?」と言われてしまうのである。

 

別の言い方をすれば、セグメンテーションやフレームワーク、チャートもそれだけでは単なる整理・分解であって、重要なのは整理・分解した諸要素を主論点へ統合的(synthetical)に還流した時に総体として何が言えるか、要するに意思決定に役立つかということである。

 

出発点とすべきは統合的思考であり、分析的思考はそこから往復されるべき客体でしかない。『仮説思考』や『ストーリーとしての競争戦略』、ひいては「お前はどうしたいの?」に至るまで、根底にある思想を解き明かせば全てはこの統合的思考というコンセプトに行き当たると思っている。

 

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

新版 論理トレーニング (哲学教科書シリーズ)

  • 作者:野矢 茂樹
  • 発売日: 2006/11/01
  • メディア: 単行本