才能と持ち場

身も蓋もないようだが、世の中は才能だとつくづく思う。

 

私的な縁を振り返っても、その分野の誰もが知るようなプロのスポーツ選手やミュージシャン、あるいは20代半ばで最高学府助教に登用される才能もいた。自分自身は決して裕福なコミュニティに属していた訳ではないし、先に述べた知人たちとて、少なくとも食卓を想像できるくらいには同じような環境で育っている。

 

だから、生まれた環境が人間を決めるというのは全くもって違う、と思う。兎にも角にも、生まれ持った才能である。ただし才能というのは常に多義的であって、多様な特性と適性がある。それは上に挙げた知人たちとて変わるところがない。

 

だから才能と同じくらいに、その才能を活かす持ち場を選び取り、そこで成し遂げる意志も重要なのだと思う。

 

 

ここからは私事になる。学生時代にある大学教授の本を読んだ。出先でふと足を運んだ書店で手にとったその書籍で彼があるテーマについて述べていたコンセプトは、当時既に他の学者や実務家の本をそれなりに読むよう努めていた自分にも全く異質かつ新鮮であり、それこそコペルニクス的転回に近い経験であった。その延長線上に、今自分が身を置いている場所もあるといってよい。

 

縁とは大変不思議なもので、昨年、その教授にお目にかかる機会を得た。活字から受けていた印象と寸分違わずその見識は鋭く、当時から何年越しの邂逅として万感の想いであった。

 

一方で、今なら自分の持ち場から彼に語りうる言葉があると思った。地上戦で場数を踏んで得た経験なりは、総合的に見れば自分より遥かに優れた知見を備えているような人物に対してであっても、一定の価値があると。

 

今一切の迷いがない、といえば嘘になる。しかし、特定の持ち場を選び取り、己を磨き続けることで初めてもたらしうる価値というものが、確かに在る。