問いの“余白”

余白を残した問いかけ、とでも言おうか。大事な助言というのは言葉少なく、数年経ってから「あの時のアレはこういうことだったのか」と思い至るようなものが少なくない。

 

他者の助言一つで即変わる程人は単純に出来ておらず、問いを内面化し自分の言葉で解を見つけることでしか人は変わり得ない。即変わったように見えるとすれば、それは契機を与えただけだ。ならば教育者の役割とは、どれだけ芯を捉えた、同時に考える余白を与える問いを授けられるか、ということに尽きるのだろう。

 

あるいは、助言の本質を"説得=convince"というのもあながち的外れでもない。しかし、それよりはむしろ相手が元々漠然と認識しているであろう課題と打ち手の"言語化=articulate"、という方が遥かに実感に近い。修辞における主語をどちらにするかという言葉の問題以上の、重要な示唆を含んでいると思う。