大陸的想像力、海洋的想像力

東南アジア人は日本に比し圧倒的に国際感覚を備えていると見受けられる。

 

エスタブリッシュメントが教育水準の高い英米に子息を送るのを好むということに加え、欧米人、華僑、印僑をはじめとする異邦人らとの交通と融和の地であったという史実がメンタリティに与えている影響もまた少なくない。翻って日本における近代史教育はこうした大陸的想像力、海洋的想像力を排除し、内向きな社会認識を一層助長、強固にする様作用しているのではないか。

 

これは国民としてのアイデンティティの源流をどの時代に求めるか、という問いと言い換えることができる。公教育が暗黙の了解として中心に据えているのは鎖国期の江戸であろう。だから前時代の織田信長山田長政、あるいは後の坂本龍馬高橋是清が“異端“として扱われるのだ。しかしその選定は本質的に恣意的であり、かつ政治的でもある。

 

要するに織田信長山田長政、あるいは後の坂本龍馬高橋是清を本流に置く“日本史”というのもまた同様にあり得るということであり、提起したいのは歴史の大きな流れを見ればむしろそれこそが本来の日本人像たりえたのではないか、ということである。